1945年3月下旬、米軍の上陸が目前に迫る中、沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒・教師ら計240名(生徒222名・引率教師18名)が「ひめゆり学徒隊」として陸軍病院への従軍看護活動に動員されました。校誌の名称「姫百合」に由来する愛称を持つ彼女たちは、直前まで机を並べて勉学に励んでいた15歳から19歳の無垢な女学生たちでした。
彼女たちに課された任務は、当初想定されていたような軽度の救護活動とは大きくかけ離れていました。配属された南風原陸軍病院壕(はえばるりくぐんびょういんごう)は、固い岩盤を掘り抜いた暗く湿った地下壕(ガマ)であり、薬品も包帯も極度に不足する中、夜昼を問わず運ばれてくる重傷兵の治療補助に従事させられたのです。
壕内には麻酔なしで行われる切断手術による兵士の絶叫が響き渡り、少女たちは切断された手足の処理、膿のたまった傷口にわくウジ虫の除去、排泄物の処理、そして激しい砲火の合間を縫っての命がけの水汲みや飯上げ(食糧運搬)を強いられました。当時の手記には「ここは生きた地獄である」と記されており、十代の少女たちにとって精神的・肉体的な限界をとうに超えた過酷な環境がそこにありました。