ネット上の簡易的な解説記事では、「義家は無敗の軍神であり、そのまま武家の棟梁として栄華を極めた」と描かれがちです。しかし、歴史の事実は遥かに残酷でした。義家の晩年は、白河上皇による巧妙な権力分断策と、自らの身内による骨肉の抗争という深い暗影に包まれていたのです。
強大化しすぎた義家の勢力を削ぐため、朝廷は義家の弟である源義綱(加茂次郎)や源義光(新羅三郎)を重用し、兄弟間の対立を煽りました。さらに決定打となったのが、義家の嫡男・源義親(みなもとのよしちか)の暴走です。義親は九州で略奪を繰り返し、朝廷から追討令を出される反逆者となってしまいました(義親の乱)。
息子を自ら討伐する命令を下さざるを得なくなった義家は、心労と加齢のなかで急速に政治的影響力を失っていきます。そして嘉承元年(1106年)7月、嫡男の反乱収拾を見届けることなく、68歳で病没(源義家の死因と晩年)しました。『中右記』には、義家の死を聞いた武士たちが「巨星落つ」と嘆き悲しむ一方で、朝廷の公家たちは「天下の患いが去った」と安堵の息を漏らした様子が克明に記されています。
義家の死後、河内源氏は義親の反乱や義綱の追討をめぐって身内同士で血で血を洗う内紛に突入し、一時的に没落の道をたどります。しかし、その圧倒的な武神としてのカリスマと「私財によって結ばれた主従関係の記憶」だけは、東国の武士たちの心から消えることはありませんでした。