煮込み料理であるにもかかわらず、なぜ「焼き」という文字が当てられているのか――その真相は、大正末期から昭和初期にかけて考案された独特の調理器具と調理法に由来します。
当時、大阪の屋台街では、浅く平らな鋳鉄製の平鍋が用いられていました。熱した平鍋の縁(フチ)に沿って、練り味噌をぐるりと土手(どて)のように盛り上げ、その中央部分に牛すじ肉や出汁を入れて加熱しました。鍋の熱で味噌の「土手」が香ばしく焼き付けられ、その焼けた味噌を少しずつ崩しながら中央の煮汁に溶かし込んで味付けを行ったことから、「土手(どて)焼き」と呼ばれるようになったと伝えられています。つまり、製法そのものに「味噌を焼く」工程が含まれていた歴史が、料理名として今なお刻まれているのです。
どて焼きが庶民の味として花開いた中心地が、通天閣を望む大阪・浪速区の新世界です。1920年代から1930年代にかけて、近隣の日雇い労働者や職人たちが集まるジャンジャン横丁(南陽通商店街)周辺の屋台で盛んに提供されました。肉類が高価だった時代、精肉としては流通しにくかった硬い牛すじ肉を、時間をかけて柔らかく煮込む工夫によって、安価で良質なタンパク源へと変えた庶民の知恵でした。
新世界において、串カツと並びどて焼きの二大巨頭として知られる老舗が「てんぐ」や「元祖串かつ だるま」です。店頭に据えられた大きな平鍋の中で、串に刺さった牛すじ肉が黄金色の白味噌の中で波打つ光景は、一世紀近くを経た現在も新世界の日常風景として受け継がれています。