金子兜太の生涯を語る上で欠かせないのが、「日本銀行のエリート銀行員」と「地獄の戦場体験者」という鮮烈なコントラストです。1919年(大正8年)、埼玉県秩父郡皆野町に生まれた兜太は、旧制水戸高校を経て東京帝国大学(現・東京大学)経済学部を卒業後、日本銀行に入行しました。
しかし入行直後、海軍主計中尉として南洋の要衝トラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)へ送られます。米軍の激しい空爆と補給路遮断により、部隊は飢餓とマラリアが蔓延する極限状態に陥りました。目の前で戦友たちが次々と飢えと病で命を落としていく凄惨な光景は、兜太の骨の髄まで焼き付くことになります。
終戦後、1年間の捕虜生活を経て1946年に復員。日銀本店へ復職を果たした兜太は、労働組合運動の先頭に立ちながら俳句の創作を本格化させました。冷徹な経済統計を扱う銀行業務の裏側で、極限の死線から生還した兜太の魂は、既成概念を突き破る強烈な表現を求め続けていたのです。